前回のブログで、NS50F AEROの修理完了後、帰り道に立ち寄った守谷沼のほとり。
そこにあった水神宮の由緒をその場で調べているうちに、偶然地図上に現れた「関東大震災福田村事件慰霊碑」。その事件概要を読み進めていくうちに、その衝撃に強く心を動かされたのでした。
そして、その場所に実際に行ってみなければと思うようになっていました。

帰宅後、インターネットでいろいろ調べているうちに、実際にその地を訪れた方々のブログも数多く拝見しました。その中に「近くにあった水神さまは一部始終を見ていたに違いない」というのがあり、アッと思いました。
Googleマップでチェックしてみると、確かに水神宮がありました。

何だか、水神さまのお導きのような気がして、1度訪れてみる気持ちは固まりました。

いろいろ調べた結果は以下のとおりです。

・1923年9月関東大震災が起こった後、朝鮮人たちが集団で放火や略奪、井戸への投毒を行ったというデマが広まり、戒厳令が発令。関東各地では官憲や民間人の自警団による朝鮮人殺害が多発した。殺された方々は、数千人規模(6千人?)だったとのことです。

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・その時、現在の千葉県野田市南端にある福田村では、香川県からの行商一行男女15人が利根川を渡るために渡し船に乗ろうとしていた。ところが 渡し船の船頭らが「言葉が変だ。怪しい。朝鮮人ではないか?」と半鐘を鳴らし、隣の田中村も含む自警団200名が一行を取り囲んだ。「君が代を歌ってみろ!」「教育勅語は?」との問いかけに「我々は日本人だ」として一行のリーダーが受け答えして、お経まで唱えてみせた。自警団の中には「やはり日本人ではないか?」と言う者も出てきたが、駐在所の警察官が「本署に問い合わせてくる」とその場を離れたとたん、言い争いの中で興奮した自警団が鳶口(木材を突き刺して移動するのに使う鉄製の鋭い工具)をリーダーの頭に振り下ろしたのでした。そして、群衆は一行を次々と殺害し始めたのでした。臨月を迎えた妊婦は、乳飲子を抱えたまま何本もの竹槍に貫かれ、利根川の中に逃げたものは、追いかけて来た者に日本刀で滅多斬りされ、あるいは猟銃で撃たれたり、棍棒で殴り殺されたり...  2歳4歳6歳の子供3人も含む9人が惨殺され、川に投げ込まれました。
少し離れた香取神社の鳥居で休んでいた残り6人も針金や縄で縛り上げられ、川に投げ込まれようとしていたところを、戻って来た警官が「彼らは日本人だ」と興奮した群集をなだめ、残り6人は辛くも助かったのでした。

・検挙された加害者8人は、「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」などと主張しており、また、当時の予審検事は、裁判の前から「量刑は考慮する」と新聞に語っていたとのことです。また村は、弁護士費用を各戸で分担して支えたとのこと。
判決は1人の執行猶予を除き、7人は実刑判決(懲役3〜10年)を受けたが、昭和天皇即位による恩赦で、2年5ヶ月後全員釈放されました。

・行商人一行は、被差別部落出身だったとのこと。当時の防犯ポスターには、「怪しい行商人を見かけたら警察へ連絡を 千葉県警」というものもあり、当時の貧しい行商人に対する差別意識も根底にあったと思われる。 川に流された遺体は不明で、遺骨も帰ってこなかった。一行のリーダーの位牌には「福田村三ツ堀ニテ惨殺セラレタリ」と書かれているそうです。通常は位牌に死因が書かれることはなく、遺族の無念さが伝わります。

・事件は、その後闇に葬られ、村でもタブーとなった。遺族達が声を上げられなかったのは、被差別部落出身だったからだと思われます。
 この事件が明るみに出たのは、1979年に遺族から「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査実行委員会」(船橋市)という会に事件についての連絡があり、事務局が香川の郷土史家に調査を依頼したことがきっかけになったとのことです。郷土史家の方が、殺されたリーダーの苗字から被差別部落出身ではないかと思い当たり、部落解放同盟に連絡をとったところ、「聞いたことがある。昔、朝鮮人と間違われ撲殺されたと報告があり部落中の人が大声で泣いたことがあると。」とわかり、聞き取り調査が始まったとのこと。当時少年だった被害生存者2名が存命で、その家族も初めて聞く話だったとのことでした。実際に遺族達は「千葉の人は鬼じゃ。近づきたくない。」という気持ちだったようです。差別される側として、声を上げても何もならないどころか、余計迫害を受けるという絶望感で、ひっそりと沈黙を続けるしかなかったのでしょう。

・加害者側の聞き取りは困難で、調査は慎重に進められたとのこと。1980年代になりマスコミでも取り上げられるようになった。
 2000年3月には香川で「千葉福田村事件真相調査会」が設立、7月には野田で「福田村事件を心に刻む会」が設立された。
 野田での設立総会では、事件当時5歳で戦後に福田村村長になった(後に野田市長や衆議院議員にもなった)新村勝雄氏が「個人としてですが、被害に遭われた香川の方々に心からおわび申し上げます。事件の真相究明は今を生きる私たちの役目。地元の一人として最大限の努力をしたい」と声を震わせながら語ったとのことです。
 2003年9月には当時の現場近くにある円福寺大利根霊園内に慰霊碑が建てられた。しかし、事件の経緯を書いた碑文を彫ることは見送られたとのことで、スペースとして空いているそうです。

長くなりましたが、以上が事件とその後の経緯です。 

初めてこの事件を知った時、その残虐性に人としての心を疑いました。
しかし、調べていくうちに、実は日本人が誤って虐殺された事件は他にもあったことを知りました。千葉市検見川でも、都内で働いていた秋田や三重・沖縄の労働者3人が千葉方面に避難したところ、不審者として自警団に捕らえられ、針金で拘束されたまま棍棒で撲殺、花見川に遺棄されたとのこと。(検見川事件)顔がわからないようにメチャメチャにされたとのこと。

さらに悲惨なのは、朝鮮人の犠牲者の方々でした。学校の歴史の教科書では、大正時代の関東大震災の記述に1行書かれているだけですが、東京を中心に数千人の方々が殺されたというのは、想像しただけでも陰鬱で胸が痛みます。
身近な千葉県でも我孫子、柏、流山、松戸、船橋等各地で起こっています。我が町に隣接する我孫子では、手賀沼の近くにある神社にて、日本刀で殺されたとのこと。現在の東武アーバンパークライン(野田線)の建設現場でも、朝鮮人労働者達が惨殺されました。

当時の小学生の作文集からです。
「寿小高等科1年 1日夜~2日朝:横浜植木会社、 唐沢交番 (寿署仮警察署) 
 「私、 朝鮮人あります。 らんぼうしません」 といいながら、 私たちにむかっていく度も頭をさげておじぎをしました。 そこへおおぜいの夜警の人が来て…いくら何をされても朝鮮人は一言も話さなかった。 しらべていた人が 「おい、 しかたがねえから警察のだんなの前でお話しろよ」 そういいながら、 おおぜいでよってたかってかつぎあげて門の方へと行ってしまった。 翌朝…寿警察の前をとおりこそうとすると、 門のなかからうむうむとうめき声が聞こえてきた。 私はものずきにも昨夜のことなど、 けろりとわすれて、 門のなかに入った。 うむうむとうなっているのは五、 六人の人が木にしばられ、 顔などはめちゃめちゃで目も口もなく、 ただ胸のあたりがぴくぴく動いているだけだった…」
 
一方、朝鮮人労働者を守ったという話もいくつかありました。

「デマが広がり虐殺が激しく行われた 2 日、 3 日、 少数ですが朝鮮人を守った日本人がいます。 その多くは土木請負業、 木賃宿営業など日頃から朝鮮人労働者と接していた人々です。 また、 田島町助役の栗谷三男や鶴見警察署長大川常吉がいます。 大川署長のことは地元の佐久間権蔵の 「日記」 や当時町議だった渡辺歌郎の手記 「感要漫録」 の発見によってその朝鮮人保護の経過が明らかになりました。 
 朝鮮人、 中国人約400名を警察署に収容保護した大川は、 朝鮮人追放を叫ぶ町民を粘り強く説得しています。 「恐るべき朝鮮人」 「憎むべき朝鮮人」 「悪魔」 とまで言って追放を要求する町議たちに確かな事実を示して、 「デマを信じるな。 彼らは鶴見で働く労働者であり、 あわれな被災者だ」 と反論し説得に成功します。 そして、 町の有力者、 町議たちの協力によって、 警察署の朝鮮人を襲おうとする町民の動きを止めます。 警察官という立場からであっても朝鮮人の親方たちとの日常のかかわりは、 この人たちを殺してはならないという強い思いとなって、 迫害される朝鮮人を守りぬいたのです。 」

人間の弱さは、現代になっても変わらないような気がします。
現在は、デマが「貴重な最新情報」とされ、あっという間にSNSで広まる危険性が高いです。 正しいニュースなのかフェイクニュースなのか分からない疑心暗鬼の混乱の中、国家間の対立構造があっという間に人々を恐怖心へと駆り立て、”祖国と家族を守るため”、世論自体が「悪魔狩り」に繋がることを想像するのは容易です。
ましてや現代は、対立を煽り、偏狭な民族意識を振りかざすネオナショナリズムが、世界的に目立って来ています。

自分には、遠い昔に苦い経験があり、ふと思い出しました。
小2の時でした。近所の友達と公園で遊ぶため歩いていたところ、同じ学年の子供達が何やら集まって騒いでいるところに出会しました。
そこでは、普段からちょっと鈍い子が、みんなからからかわれていました。自分もそこで、彼に向かってちょっと囃し立てた後、すぐ場を離れました。
翌朝学校に行くと、担任の先生が血相を変えて、「昨日、**君のお母さんから、息子が石を投げられて体をミミズ腫れにして帰って来たと連絡があった。その場にいた者全員立ちなさいっ!」

石を投げられた? あの後、そんなことにまでなっていたんだと思い、自分はそれには関わっていなかったのですが、その場に出くわし一緒に囃し立てたのは事実なので、立ちました。畜生、運が悪いなと。
一人一人何をしたか話すことになりました。
自分の番が来て、「悪口を言いました」と言いました。
先生が「どんな悪口を言ったのか、言いなさい」と詰問しましたが、言えませんでした。
先生は「そう、人に言えないような酷い悪口を言ったのね。もういいわっ!」

自分が言えなかったのは、その悪口が、普段先生ご自身がその子に対してイライラした時に使う「おべべちゃん」という蔑称だったからでした。
なんで「洋服のおべべ」なのか、ずっと意味がわかりませんでした。今、インターネットで検索してみると「大阪の方言で、最下位、ビリのこと」とありました...